団塊の世代

 1昨日、報道ステーション神田川の誕生秘話、について書いたところ、やはり団塊の世代と思しき方々が、こちらにものぞきにこられていた。僕は団塊の世代ではないが、団塊の世代の方々を見てきた僕たちの世代は、団塊の世代の方々のことを客観的に見てきたと言えるかもしれない。

 初期の井上陽水さんのエネルギーを期待する人にとって、現在の上手になられた井上陽水さんは別の人であるように思うのではないかな?

 今日のサンプルのように、弾き語りで唄うと、否応なしにその人のそれまでの音楽性が出てしまう。初期の井上陽水さんは、あかずの踏み切りをまざまざとイメージとして、聞き手の前に出現させた。
 僕は年をとってから唄い始めたし、それまでの音楽的なキャリアからするとちぐはぐだ。一方、井上陽水さんは、初期のテレビに出なかった状況から脱皮した。脱皮して欲しくない人は置いてきぼりにした。置いてきぼりを食った人は、社会において井上陽水さんと方を並べ、いつの間にか同じ位置にいる。

 でも、東へ西へ、の世界が根っこにある世代がある。僕もそうであると思う。年をとってカラオケで歌うのは、そんな世界だ。僕は団塊の世代ではないから、PPMを唄うことはしないが、1年か2年に一度、同級生に誘われてスナックでカラオケを歌わされるときには、吉田拓郎さんの「落葉」を唄う。単純に好きなのだ。

 なぜ、こんなことを書くかといえば、世代とリズムが同期していた、のが70年代くらいまでなのだ。現代の子は、リズムを拾う力は素晴らしいが、リズムの難しいものまで平気で唄う。そうやって、時代時代のリズムはこなれていく側面もある。もちろんアカデミックにきちんと練習すれば、いつの世代でも関係ない。ただ、現代の曲を作る側の人たちが、本当にリズムを意識しているのかいな?と思わせるような曲が世に溢れていることも事実だ。一定の機械的なテンポに合わせて曲を作る人が、何でもありのようなことを次々と曲に入れていくような、そんな印象を持つことがよくある。70年代に聞いた井上陽水さんや吉田拓郎さんの曲は、そうではなかった。団塊の世代のお父さんたちがおじいさんの域になりつつあっても、昔取った杵柄でギターを弾いてみるならば、すぐに歌とギターが同期できるだろう。今流行している曲を唄おうとしても、曲を選ばないとなかなか弾き語りが出来ないのじゃないかな?

 それで弾き語りに話を戻すと、弾き語りは、ギターでもピアノでも、楽器のリズムと同期していないと歌は唄えない。これは、歌と楽器が同じリズムを取るということではない。歌の細かなリズムと楽器の細かなリズムのノリが同じでなければいけないのだ。逆に言えばそこが一種の保険のようなものなので、歌とギターは必ず同期するから曲の取っ掛かりの時に、弾き語りを重要視する。これ以上は、なかなかに専門的になりすぎるので、またの機会に。