自分を信じ続けるにはエネルギーが必要だ

 農業の世界にいる僕が、いまだに音楽の世界に足を突っ込んでいる。というのが、世間一般に通用する表現方法だろう。農業は戦いであろうか?音楽は戦いであろうか?

 農の世界でも、市場原理にさらされるならば、それは一つの戦いであり、高値の時に出荷するという駆け引きが必要になってくる。高値でいつも売っている農家は評価される。だが、僕のところはそうでない。市場原理を無視して、自分で値段をつけ、特定の購買層に買っていただいている。これを続けている。そういう意味で戦いではない。

 音楽の世界も、音楽業界の一員となれば、それは戦いになるであろう。戦いになると、必ず評論家が登場し、プロデューサーなども一つの力をあるいは一つの影響力を持つようになる。力や影響力というものは、業界内はもちろんのこと、雑誌やメディアなどを通じて、いつの間にか拡がる。
 そうなれば、彼らを主体としたコンテストなどが露出し、結果人が集まる。そして、そこで気に入られた人は、ほんの少しの間に話しただけで「素晴らしい人だ」と持ち上げる。こうして世界が出来上がっていく。

 こうした現象は、もちろん音楽業界に限ったことではない。どの業界にも蔓延した古い体質だ。そうしないと生きていけない古い体質の人が蔓延しているのだ。

 そうでないように生きていくにはどうしたらいいか?やはり、自分で種を播き、苗を育て、大地に苗をおろし、根を張り、成熟させていかなければいけない。実った作物は、自分で収獲し、選別し、自分で車の運転をして、買ってくれる方に届ける、これがやり方だ。これを続けるのには、相当のエネルギーが要る。そこにだけ、プロフェッショナルは存在する、といっていいだろう。そうではないやり方が、蔓延している。遊んでいるといっていいだろう。オシムのいうことは広範な意味を持つ。

 生涯をサッカーに捧げることと同じように、生涯を音楽に捧げるのならば、サッカー以外のことも音楽以外のことも、サッカーに通じなければならないし、音楽に通じなければならない。そして、そこには基本というものがある。間違ってはいけない。音楽の基本には二つある。クラシカルな頭打ちの音楽か、ポップスジャズなどのような後打ちの音楽か。クラシカルな頭打ちを体得している人間にとって、例えば2拍4拍の後打ちを体得するには相当に年月を要する。僕は20年以上かかっている。個人差によるだろう。アメリカの黒人であれば、聴いている音楽にもよるだろうが、幼い子でも後打ちを体得しているだろう。これは予想だが。

 話はそれてしまうが。軍事大国、アメリカの今までの最大の功績は、人種差別に抑圧された黒人たちが編み出し蓄積していった、ジャズから広まったポップス音楽の創造だ。これは驚愕に値する。頭打ちの音楽世界を、後打ちに変えたのだから。どちらがいいというものではない。頭打ちの音楽と後打ちの音楽が存在するだけのこと。

 振り返って日本の音楽は?どうしてこうも物真似ばかりなんだろう?それに加えて、というか、物真似にこうじるあまり、曲も残らない時代になってきた。60年代70年代のほうが曲はあった。コマーシャルソングなんかでも、やたらと古い曲に頼るのは、曲がないせいだろう。

 本当に生きていくのは大変だ。それでも、自分を信じなければ、生きていく楽しみがなくなってしまうってなもんだ。