インパクトで引っ張る国民性

 Rosemary&Timesは、次の楽曲「それだけで意味がある」の編集に入った。追加録音の前に、テンポを書き込んだ。今、歌詞の推敲中だ。

 少し人の曲を聴いてみた。インパクトのある曲が、インパクトのみで引っ張って人気があるようだ。知名度いわゆるネームバリューでも引っ張られる国民性だと常々思ってきたが、インパクトのあるものに対してはすぐにテレビなどが飛びつくようだ。あと、何何風というやつですね。本物っぽいものにもすぐに飛びつく国民性ですな。どうも人の物真似は素晴らしい、と思っている人が大多数を占めているふしがある。英国民とは、同じ島国でもえらい違いのような気がするけれど。

 売れているものがさらに売れる。これがこの国の習性だが、人の判断を待たないで、自分の判断で物事を見極める、ということが重要視されていないのかな?自分のことは自分できめるのがよい、と思うのが普通でしょう?でも、どうも自分で物事を決められない人が氾濫している気がする。そんなことを若い人に言ってみると、思った通りの答えが返ってきた。「人と違うことをするのが怖い」や「多数決がすべての価値判断」など。

 「自分の思った通りのことをしてみなよ」
 「気に入ってもらえることを最重要にしちゃだめだよ」
 「人の評価を追いかけてたら、自分が何をやりたいのか分からなくなっちゃうよ」
などと日常的に若い人に言い続けてみると、「ちょっと言うことがほかの人と違うんですよね」と戸惑い気味である。僕は、相棒のjoeと学生時代から、とことん議論してきた。その主題は、独自性と基本の両立である。これが、アーティストの、困難であるが立ち向かう原動力の重要な部分であるはずだ。このことに、社会的通念と年齢が加わり、アーティストは変貌する。が、心の中は、言い訳を認めている人も少なくない。

 話題が若干それたが、インパクトは重要である。が、それはきっかけに過ぎない。インパクトを骨の髄まで引っ張る国民性を植えつけたのは、免許制のテレビ業界である。そのテレビ業界を支えたのは、まぎれもなく僕たち市民である。そして、レコード業界は、テレビを別格視してきた。その昔、井上陽水がテレビに出ない、ということに賛意をもっていたラジオのリスナーは、今や団塊の世代あるいは四十代以降の人たちである。そして、大手を振って井上陽水はテレビに出るようになり、それが嬉しくてたまらない人が多いこともまた事実である。

 昔は、唄に力を求めた。だから批判した。今は、インパクトのある唄に対して、批判する聴力がない。あまりに受身だから。もっと言ってしまおう。ジャズ風の演奏を持ってきて、すべて頭打ちのリズムで歌詞を入れたら、何が主題かわからないだろう。マイルスが聞いたら、何というだろう?これは音楽の世界ではない。テレビの世界だ。稚拙だっていいから、そこに音楽がほしい。そういう曲があふれている。