地と空ノンフィクションその2

 ヤマハのセローを駆って、農道を走る寓太の瞳には、この30年間の会社での歴史がよみがえっていた。会社の部下たちを引き連れて飲み歩いたり、上司と部下の関係が険悪になった時の仲裁など、寓太は人と人の間に入る役割を演じてきた。好きな詩作をきっぱり忘れて、この好きでもない仕事を一生懸命にやっているふりをしてきた。もしも、詩作というきれいな水のある場所に行こうとしたならば、すべてを覆さなければいけないだろう。泥水の中で、じっと我慢していれば、何とか楽しい生活を維持していけるはずだった。その30年を、一瞬にして捨てられた、そういう思いをどうしてもぬぐうことができなかったのだ。それは、この30年を否定されることにほかならない、と思い込んでいたのだ。そんな思いや思い出が風景として、セローの前方視界を染めていた。セローは、農道を離れて、街並みに入っていった。

 街に繰り出すことを頻繁にしてきた寓太は、飲み屋やレストラン、洋服屋などには詳しいが、それ以外のお店に関しては、あまり目がいかなかった。バイクを歩道に止めて、赤いヘルメットをとり、はじめて花屋に足を踏み入れた。色とりどりのカーネーションやバラなど、目を刺激するが、そのほかの花はほとんど何という種類の花なのか、皆目見当がつかなかった。店員の赤いエプロンの女の子に、「トマトはどこ?」と聞いてみた。「表にありますよ」と、寓太の娘と同じ年くらいの店員が答えた。店の外に出てみた。あった。苗を欲しかったのだ。

 トマトとナスの苗を3本ずつ買い、段ボールに入れてもらった。白いボディに赤や青のデザインの入ったセロー、その小さな荷台に、野菜の苗を入れた段ボールを無理やりくくりつけたが、どうにも格好が悪い。慌てて、エンジンをかけ、白い煙とバリバリという排気音を残して、花屋をあとにした。

 いったい俺は、何をやっているんだろう?これは気を紛らせているだけなのか?ただの衝動か?でも、あの庭のミミズを見たあとでは、たとえ気を紛らせているだけだとしても、苗を植えたい、という衝動は抑えられなかったのだ。しかし、明日からの生活はまだ何も保障されていない。失業からの脱却をしようともせずに、気を紛らせているだけ、過去を否定された気になって恨んでいるだけだった。

 エイトビートのサウンドの中で、3拍子の生活をしているつもりだったが、実は5拍子のダンスを踊らされていたことに気付いた。そんな、まったく腑に落ちない思いが、いつまでも寓太とセローの周囲に満ち満ちていた。家に戻った寓太は、トマトとナスの苗を荷台からおろした。でたらめにほじくり返した庭に、でたらめに苗を植えた。トマトとナスの苗は、15cmほどの間隔で窮屈そうに並んだのである。


 続く。