久しぶりの録音は「来る日も来る日も雨だから」

 「草子」のなかでも聞かれることの多い曲である。昨年末にも録音したのだけれど、ボーカルの息継ぎに納得できない部分があって、再度録音しなおした。

 現在の「草子」は、僕のオベーションクラシカルとharuさんのボーカルのユニットだ。録音もクリックを使わない一発録音形式に、コーラスなどを重ねていくというシンプルな方法だ。

 で、実際に久しぶりの演奏をしてみると、やはり息継ぎが気になる。ボーカルの出だしのタイミングも気になる。ここで一つ発見した。「Rosemary&Times」での相棒との演奏が、自分のリズム感を覚醒させていたということ。リズム感がいいとか悪いとか、ということではない。細やかなリズムを自分で納得して演奏できているかの確認を、演奏中にできるかどうかということだ。

 実は、今まで「草子」ではいつも、演奏者によいパフォーマンスを出してもらうことだけを考えて録音していた。しかし、自分も一緒に演奏しているのである。やはり、そのリアルタイムの演奏の中で、自分の音楽観を出していかなければ、一緒に演奏している人の良さを引き出せない。そして、また逆に、録音するというエンジニア的行為は、自分の演奏者としての集中力を散漫にさせる原因にもなっていたことに気付いた。

 つまり、その客観性を、バランスよく保つように神経を使ったということ。それから、やはり録音本番では、間奏部分で即興演奏が未知の部分として現れる。それを大事にした。多少ミスった演奏であったが、未知の部分をそのまま残した。やり直しはしたくないのだ。そして、次の挑戦もした。

 昨日の録音では、2時間という制約があった。その中で、コーラスを録音することにした。その場で考えていったコーラスパートだ。「Rosemary&Times」では、僕が主旋律に対して上と下をそれぞれ2回唄うという、3声であることが多いのだが、今回は、下だけ録音した時点でよい感じであることに気付いた。この場合、無理して上のパートを録音するよりも、2声で満足を拡大するほうがよいと、その場で感じたのだった。いや、「草子」では今までで一番よい録音だと判断したというのが正解だろう。

 何かが見える、というのは流れが見えるということでもある。こういうことは、20代の前半ではなかったことだ。一つの流れが確実に来ていることを、昨日の録音では感じ取ることができたのである。