相棒と話した

 今日は雨だった。お昼に仕事が一段落したので、相棒のjoeに電話をかけた。

 手紙で、サンプルCDとレコーディングの感想をもらっていたが、実際に話す必要があった。joeの意見はいつもはっきりしている。が、年を食った分だけ、ドラムスという教える側の一つの形がプライドを生んでいるのが分かる。そこを諭した。

 リハーサルを繰り返さなければいいものが出来ない、という主張は当たっている。が、プロフェッショナルを標榜する限りは、リハーサルが短い場合も、結果を出さなければならない。で、結果は出している、と思っている。ただ、やはり一つの形として、最上のものベストのものを形に残したい、という気持ちもわかる。

 5年、10年という単位で考えるならば、気持ちは楽になるし、そのときその時のプレイ(表現)は、それ以上でもそれ以下でもない。25歳、30歳の頃からすれば、どんなに失敗であるプレイも、ランクは上だ。問題は、僕たちの情熱である。情熱を持続することができるのであれば、長年の経験が技術に上乗せされる。いや、補うと言うのが正解か。

 彼とは、19歳で出会っているが、お互いに物事をはっきり言える間柄が続いている。だからこそ、意見の違いで対立もあった。それは自分を守る対立ではなく、自分の芸術に対する価値観を大事にした結果であった。彼の教え子がメジャーでCDを出している子もいるそうだが、そんなことはたいしたことではない。音楽は、あくまで基本が大事なことに変わりはないが、その基本を蹴散らすほどの自己主張が必要なのである。でなければ、音楽を人に提示する意味がない。

 だが、音楽は論じる意味がない。音楽もまた具体なのだ。具体を結果に出すために論じるのだ。今日の昼間に論じたことは、僕が歌うなり、ギターを弾くなりしなければ、まったく意味を成さない。論じることが、エネルギーにはなる。が、エネルギーの持続は、それだけでは維持できない。そこに情熱の深さが関係してくる。ベートーベンの情熱は、理由はどうあれ、並大抵のものじゃなかったはずだ。

 今日は、「ラスク」の唄入れを行った。一つの音楽的行為は連鎖を産む。連鎖は、アイディアの宝庫となるきっかけを産みやすい。そうして、音楽は前進していくのだ。